Essay96 ―― 理科系のための女装試論1996年度版

咲緒 あゆみ

Preface

「人は女装者をどう見、どう扱ったら良いのか?」この戸惑いが嘲笑を、苛立ちを、あるいは嫌悪を、そして時には恐怖をも生むのではなかろうか?という思いが私にはあった。ここで言う人とは女装しない人は勿論、自身も女装をしつつ或いは志しつつある人をも含む。

彼らは笑ってしまうことで自分と関係ないと切り離し、判らないという精神状態の不安定さに苛立ち、精神状態の不安定さを厭う気持ちから嫌悪し、あるいはその不安定を相手に投影して恐怖を感じる。これは実のところ「人は人をどう見、どう扱ったら良いのか?」の部分であって世の中の差別の全てに共通する発端の一つの表現であると思われる。従って以下では、男女観に纏わるセックス(生物学的性)、ジェンダー(社会的性)、またセクシャリティ(性的対象の嗜好)についてはサンプルとして扱い、これらのこと自身について生物学的、社会学的、歴史学的に検討したるすることはしない。この女装を扱うにしては一見非常識な方針は、男と女に纏わる宿命論的迷路や、差別に関する不毛な精神論を避けることに役立つと思われるので、議論全体の見通しは良くなる筈である。

念の為確認しておくと、ここで言う女装者とは動機の如何を問わず女性の衣服とされているものを身に纏う人というもっとも広い意味で解釈しその他の前提を置かない。例を挙げて言えば、男に抱かれたいか否か、女になりたいか否か、ファッションを追求するか否か、変身願望があるか否か、と言ったようなことには一切拘らないと言うことである。このように動機を含めた分類を退け、男女観についての伝統的な分析を避ける理由は、Outsideの章では「無知の知」に基づいた議論にそれらが単に不要だからであり、Insideの章ではそのような分類を前もって行うことそのものが不適当であることを主張するつもりだからである。

以上のように社会的機構と心的機構の二つの観点から人と人の関係について考え、そこから女装及び女装者との付き合いかたを考える。

最終的に本論で提供するものは一つの枠組みである。Outsideの章では多様性を許容する社会的に既に存在する仕組みの概観を、Insideの章では多様性を生み出しうる統一的な心の仕組みの可能性として分類子モデルというメンタルモデルを紹介する。これらの枠組みは本来は女装の分析に特化したものではないし、本文中でも極力広く扱う。

Outside

様々な局面で、公然たる嘲笑に始まって叱責、あからさまな忌避に至るまで女装者の様々な行いに圧力をかけることが社会的に正しいかの如く振る舞う人々は、しばしば自由についての理解が根本的に間違っている(これには女装者が自分自身や他の女装者に働きかける場合を含む)。この章では社会の仕組みに基づいて自由について考える。自由についての理解することには不当な圧力に対して言論を以って抗えるという些細な実益に加え、自分が社会で殊更に爪弾きされるべき異端者でないことが納得できるという重大な余得がある。

資源配分

社会的仕組みは何を契機に発生するかは諸説ある。しかし発生のことを脇に置くとすれば、少なくともその維持と発展は資源をその社会の構成員に適宜配分するという機能と深い関わりがある。我々の住む社会では各構成員が利用可能な資源、例えば物資もエネルギーも時間も、が基本的に何時も有限であり、その上に不足している。そこで社会はそれら資源を配分を決定するという重要な機能を持つ。配分された資源は諸々の事々に利用され、そのうちあるものは別の資源を産することがある。資源の利用は例えば以下のような目的で行われる。

  1. 各構成員の生命の維持、
  2. 事故や災害の救済、
  3. 将来に対する準備、
  4. 自然や社会についての知識の蓄積
  5. 楽しみ

例に挙げたこれらの事々をとっても相互に相関と競合がある。競合は自明として、簡単な相関の例を挙げれば、(イ)と(ホ)には相互に互いが目的となる循環があるし、(ロ)は(イ)を直接的に支援するし、(ハ)は(ロ)に必要な資源を節約させ、(ニ)は(ハ)を容易にすると共にそれ自身が時として(ホ)を目的とするといったような具合である。加えて、これらの目的は無数の小目的から成りそれらの間にも相関と競合があると考えた方が適当である。その上、現代では社会の最大のまとまりは地球上に広がっていると考えられており、地球上に生きる人の数とそれらに関わりのある物事や現象の数を考えると規模の大きさも相当なものである。このことから資源の配分は一筋縄では行かない複雑な問題であることが分かる。実際、この問題は複雑なのであり、我々はこれを直接に前もって解く事ができない。言い換えると我々は、資源の配分について基本的に無知であって、どこにどれほど資源を注ぎ込めばいいのかについて全貌を知ることができていない。

ここで「基本的に」と述べたのはそこが議論の重要な出発点であって、現代の我々は部分的、局所的な傾向については全く知識を有しないと言う訳でもないからである。ただし、重要なことは問題の全貌は分かっていないし、直接に前もって解く事はできないという状態に変わりはないことである。

無知と自由と平等

前節で述べたように我々は資源の配分という問題について基本的に無知である。無知について古代ギリシアのかの有名な哲人ソクラテスは無知であることを知ることが重要な知識であることを教えてくれている。この無知の自覚が単に個人の知識に関する道徳に留まらないことは、彼の生きた古代ギリシア都市国家において政治と宗教が未分化で宗教的/道徳的偏狭さがともすれば自由を脅かしたという背景からも知ることができる。

配分に関する無知に対してまず可能な対処は単に何もしない事である。この何もしないとは「社会的に何ら影響を与えない」という意味である。一つには各構成員が何をしたら良いのかを決めることができないので何も規制しないということである。もう一つには各構成員にどれだけ配分をしたらよいか分からないので特に偏った配分をしないということである。前者の方策を自由、後者の方策を平等と呼ぶ。両者は無知の自覚を出発点に置く場合の初期方策であると言える。実際この方策は運用にかかる直接的な費用が少なく実現が容易な方策であることも分かる。

社会的活動について資源の配分行為を資源の配分を求める計算過程と見ることができる。自由と平等の下では資源配分は各構成員の自発的な要求と要求への対応によって資源が配分される。これは計算過程と見たときには各構成員を計算単位としその数だけの並列計算と見ることもできよう。これらの計算単位を特に「導かないようにする」こと、つまり自由に任せることは最適解を知るため他に計算方法が知られていない場合、即ち無知である場合、計算単位を導くのにかかる費用が不要であることから効率が良い。同様に特定の計算単位を選んで根拠無く偏った資源配分を行わないようにすること、つまり平等についてもその特定の単位を選ぶのにかかる費用が不要であることから効率が良い。

このように無知ならば自由、平等であるべきことが理解できる。

要求と権利

前節で導いたように無知が自由と平等に結びつくとすると、得られている知識はどうすれば良いかという問題がある。得られている知識が資源の配分を知ることができるようなものであれば置き換えてしまえば良いのだが、残念ながらそうではないので、無知に基づく自由と平等に基本に据えつつ加減を見ながら知識に基づいて修正を行う形になる。例えば、政府、企業、各種団体などの組織や、通貨、法律、財政、信用取り引きなどの仕組みと言ったような社会的機構がその修正として運用されてきている。これらの仕組みを運用する際に基本となる仕組みは権利である。権利は無知の社会制度化たる自由と平等に対しての知識による修正の最小単位である。それはその英語表現であるright(権利)がright request(正しい要求)から生まれていることからも示される通り、基本的に各個の要求に基づくものである。元々自発的になされていた要求の内ある種類のものを社会的に合意された知識に基づいて社会的に支持することによって強化するという修正である。この成り立ちのため権利は以下の二つの面を持つ。

  1. 権利は要求の無いところには発生しない。
  2. 要求が権利として正当だと認められるには知識が必要である。

前者(イ)は社会機構の運営という面で重要な意味を持っている。権利は正当な要求の型として定められているに過ぎず、要求しない限りその実体は認められることはないということである。このことは北欧の法律学者イェーリングによって闘争という極端とも思える言葉で表現されている。このような要求としての権利の性質は資源配分行為を計算過程と見た場合にも有効な性質である。つまり要求が発生した時に限り自由に対する例外が発生するのであって、社会機構が絶えず権利のリストを眺めながら見張りを続けている訳ではないということである。仮に社会機構が見張ろうとすれば各人の行動を一々調べる仕組みが必要なことになり運用費用が嵩むこと夥しいであろう。

後者(ロ)は自由との関係で重要な意味を持っている。権利は自由に対する例外的な修正であるに過ぎず、それが認められるには社会的な合意に足る程度には確固とした知識の裏付けが必要である。逆に言えば知識の裏付けが怪しいか、あるいは疑いを持たれるに至った権利は消滅することが相応しい。

この節の最後として権利という仕組みの応用例を挙げる。しばしば権利と対置される義務は実のところ国という社会機構がその構成員たる国民に要求する形の権利を要求される側から見たときの別名である。従って「権利の主張をするなら義務を果たせ」という主張はそれ程根拠のあるものではない。何故なら、個々の権利の主張と国の権利の主張は本来独立であるから。関連付けて罰則規定があるかどうかはまた別の問題である。まして私人同志の関係において「権利の主張をするなら義務を果たせ」と主張することは一般には全くもって適当ではない。

また興味深いことに、生命身体の自由や思想心情の自由、集会結社の自由、表現の自由など無知の自覚という知識のうちあるものは自由であるための権利という形で権利として積極的に認められてもいる。これらは多くの場合人権という形でさらに強化されている。

主張と寛容

以上のような自由、平等、権利の理解を踏まえれば人は人、とそれに含まれる女装者、をどう扱ったら良いかは自明である。

その第一は寛容である。測定可能な実害が無い限り自分が気に入らない者がいても放置することである。本人の為などと僭越にも請われてもいない指導をすることは勿論、社会的に排除するように働きかけることなどはもっての外である。無論、それらを行う自由も存在はするが社会的に認められることを期待するのは誤りであるし、社会的に正しいかのごとく振る舞うことは詐欺的行為であり、尊敬を得られることはないであろう。加えて取った方法によっては権利化された自由を犯すものとして逆に糾弾されることすら有り得る。

一方で権利の性質から表現の自由の一環として女装の自由を捉えるならば、女装者はまず要求し主張することが前提条件である。主張の方法は過激なものから穏当なものまで様々であるけれど社会は女装の得失について無知であることからそれを容認せざるを得ない筈である。相手が合理的に測定可能な実害を挙げて反論して来ない限りは社会はそれに関わらないので個人対個人の関係だけの問題となる。

以上のことは国などの大きな社会から家族のような小さな社会までどこででも成り立つ筈である。

Inside

この章では心的機能についての科学の成果を利用して、多様性を含む人の精神のモデルを例として紹介する。その際、サンプルとして女性性と男性性とは何かについて考える。その中で対女装者を含む相互の理解の可能性についても考える。

端的に言って冒頭に挙げたような戸惑いを解消できればそれに基づいたネガティブな心的状態は発生する事がなくなり、ネガティブな心的状態を観測して二次的な戸惑いも解消され万々歳である。一つの方法は分かりやすい典型例をこちらから与えてしまう方法である。実際に多くのステレオタイプが提供されてきた。例えば以下のようなものが挙げられよう。

これらは若干の真理を含みはするし、お手軽簡単でそれが故にある程度有用でもある。しかし、所詮理解しやすいように極度に単純化した典型例に過ぎず、女装者本人の実際の心的状態と一致するものではない。従って、自分自身を含め、長く、深く付き合う人間にあまり強力に刷り込むと後でその刷り込みに沿った期待が発生して後で不自由な思いをすることになるのは間違いない。この章で述べるように人の認知のメカニズムは単に典型例を記憶するよりもっと柔軟なものであり得る。この柔軟さを理解できれば、他人に自分を説明する時、自分自身が何者かを知りたい時、他人が人をどう見ているかを推測する時に役立つ。

この章では以上の目的の為にメンタルモデル、特に分類子モデルを例として紹介する。分類子モデルは人間が対象を分類して認知する能力に関して学習と帰納的推論のメカニズムを説明するべく提案されたものである。ここでは人が自身を含む人を分類する機構としてこれを援用することによって人が自身を含む人の多様性を分類して取り扱う仕組みについて考える。この議論は一部では動かしがたい本質とすらされている男性性と女性性についてこれを分類の問題と考えての再検討を含む。

ここまでで自分自身の認知についても強調していることは実は重要である。人は自身について考えるときも自分自身丸ごとを考えることはできず、自分自身について学習して得た自分自身のモデルについて考えているからである。他人の理解やその延長として他人との関係を考える際に自身の理解が重要であることは恐らく改めて言うまでもなかろう。

メンタルモデル

私たちが人の精神活動について話をする時、私たちは他のものについて話すときと同様、精神活動について各人が持っているモデルについて話している。言い換えると精神活動について議論することはそのモデルについて検討することであり、精密さのためにはモデルは単なる脳内表現から言葉で表現/伝達できるように形式化される必要がある。このように言葉で表現できるように形式化された精神のモデルを認知のモデルという。このようにして作られた認知のモデルは精神の可動模型であってこれを様々な条件で模擬的に動作させてその結果が実際の人間の精神活動を良く模倣すれば良いモデルであると判断される。

メンタルモデルとは精神活動を計算過程として表現することによりそれらを取り扱うものである。例えば、従来唱えられてきた強力な認知のモデルにスキーマ(スクリプト、フレーム、コンセプトなどとも呼ばれる。)というものがあるがこれは非常に静的な構造を持っており、例外的な事象や精神活動の動的な変化を記述する能力に欠けていた。メンタルモデルは計算過程として精神活動を表現し学習、帰納的推論、認知を統合した。

例えば、分類子モデル

分類子モデルは人が行う分類に関する推論と学習のモデルであり、Hollandによって1986年に提案された。計算機上に実現可能な分類子システムとして定義され、以下のような幾つかの特徴を持ったプロダクションシステムの親戚である。

  1. 並列性
  2. メッセージパッシング

これらの特徴の内、今回の話題に重要なのは前者の特徴である。通常のプロダクションシステムでは一度に起動されるルールは一つであり条件の組み合わせから一意に決まる必要があり、勢い最終的な結論もある一つのルールにより出される。よって分類に用いる場合条件にマッチしたルールが最終的に一つ選ばれることによってなされることになる。このことは良く似てはいるが微妙に異なるものについてそれぞれ別のルールが必要になることを示す。そのためルールの条件付けが難しくなり学習や連想のような現象を説明し辛い。従って今回の話題に関して言えば典型例のようなものは記述し易いが、人の多様性のように個々人について多くの共通点と、僅かなしかし確実な相違点を持つ対象が沢山ある場合を上手く扱えないことになる。何故ならこのような多様性を扱うには前もって必要な場合を網羅することが難しいので事例ごとにインクリメンタルに学習する必要があるからである。

分類子システムでは分類の結果はルールクラスターとして表現される。ルールクラスターとはある瞬間に条件にマッチして並列的に有効となっているルールの集合である。つまり分類可能な状態数はルールの個数そのものではなくルールの組み合わせの数によることになり、プロダクションシステムに比べてルールの数は減らすことができ、ルールの実行部はそれ程重要でなくなって一様なものとなり、ルールの条件部も複雑な条件を持たず簡潔にできる。そのため異なる分類にあるルールを何度でも再利用できるし、ルール自身の記述も簡素になって合成や書き換えなどの操作も簡単となるので学習の記述が容易になる。実際分類子システムではルール間で信頼性を示す重み値を中継する機構(バケツリレーアルゴリズム)とルールの条件部の合成で新ルールを作る機構(遺伝子アルゴリズム)という比較的簡単な機構で学習と分類が結び付けられ機能している。

何故、女装は可能であるか?

分類子システムの性質が実際の分類行為を良く説明することを見よう。以前、別稿で、女装の殆どの努力において、男性的とされる特徴を隠すことよりは女性的特徴とされるものを強調することが有効であるという経験を述べたことがある。実際単に男性的特徴を隠すだけでは相手には情報量不足で正体不明の人物がいるとだけ捉えられることとなり、必ずしも「女装」とは認識されない。分類子システムの状態を使って言えば単にマッチするルールが減るだけである。一方、女性的とされる特徴を強調することは女性とマッチするルールを増やして女性だと誤認させることである。ルールの数を考えるとき、隠す努力がマッチしそうな特徴に対応するルールの数は限られているのに対し、強調/演出する努力は女性的とされる特徴を自分が備えていないものまでもすべて利用できるため遥かに制限が少なく、選択の幅も広い。無論隠すことも誤認を助けはするが、積極的に演出した場合程の効果が無い。この理由は概ねルールの数で説明ができる。重みが同じくらいならば、多くのルールにマッチする方が認知され易い筈だからである。

さらに詳しく見てみると前述のような演出が可能である背景には人の男女が実は良く似ているという重要な特徴が潜んでいる。これは機能の問題も含む。実際生殖と生殖器に関係ない行為を問題とするとき男女の間で一方にできて一方に全くできない行為を探す方が難しいことに気づく。従って生殖器や遺伝子に頼れない状況下に於ける男女の区別は非専門家には見分けるのが難しい解剖学的特徴や、個体だけでは判別できない統計的推論や、後天的に習得された特徴にもとづくことになる。解剖学を援用しなければならない微妙な特徴に頼ることは実は男女の形状が非常に似通っていることの裏返しであり、統計的推論に頼ることは即ち個体差の偏差と男女差の偏差が比較的近いことの裏返しであり、後天的特徴に頼らざるを得ないことは機能的には元々似通っていることの裏返しだと言える。

人の推論機構はこの似通った男女を弁別するために微妙な特徴の集合をも利用できるように訓練され学習し研ぎ澄まされているので通常は生殖器の形状に依らずとも男女を弁別できる。しかし、元が微妙な特徴であるので他に強調されている部分があれば容易に誤認してしまう。このことが女装(と男装も)が可能な理由である。

男性性と女性性

前述のような事情、経験から分類子システムは男女の分類を良くすることが分かる。そして分類子システムで男女を類別しようとする場合、人々は人としての共通部分を持ちつつもそれぞれ微妙に異なるルールクラスタとして現われると考えられる。そのパターンがバケツリレーアルゴリズムの作用の結果男女どちらに安定するかで男性と女性が弁別されることになる。これは女装者を見た人が性別を誤認する時も、性転換希望者が自身の性別が間違っていると認識するときも、性差別主義者が定型に嵌まらぬ者に困惑を感じるときも同じメカニズムが働いている訳である。困惑はバケツリレーが安定するのに時間がかかる時に発生すると考えられる。それは対象が分類の間を行き来するような心の中の「振動」として感じ取られる筈である。そして例えば、学習が偏って相関が本来は深くないルールがルールクラスタに含まれると安定するのに時間がかかるであろう事は予測できる。

このように考えると男性性と女性性はそれら自身が確固として存在する直接観測可能な特徴というよりは観測可能な特徴のリスト(分類子システムではルールクラスターとして表現される。)であると捉えた方が良いだろう。そしてリストの項目は各個人でバラ付きがある訳である。

この認識があれば性に関する分類にある困惑を抱えている人が言いがかりを付けてきた時にどこに無用な結びつきを見ているかを見つけることに集中できるし、実は女装の際の演出点の選択が全く自由でありうることも見てとれるし、男性、女性、女装者(男装者)、社会的性転換者(TG:Trans Genderist)、性転換者(TS:Trans-Sexualist)の間の相互乗り入れを含む多様性が本質的なものであることも分かる。それらの分類がまずあるのではなくどの特徴に拘るかの違いが各個の多様性という本質的な違いを生んでいるのである。

この節の結論から性に関する分類に始まる様々な分類は定義を明確に行い、定義から導き出されることだけを厳密に議論の礎とし、相関関係の扱いは慎重に行うべきであるといえる。

典型と例外

分類子システムを実験観察し解析した結果、ルールはデフォールトと呼ばれる典型例を表わすルール群と例外を表わすルール群に分類され、ルールの数が少なくなるように両者の型のルールが混在すると計算効率が良くなることが分かっている。その為、分類子システムのルールにはデフォールトが正しく取り扱えなかった対象を経験するとまず例外ルールを付加し、例外を含むルール群から新たにデフォールトに属し得るようなルールを遺伝子アルゴリズムによって合成しながら古い使われなくなったルールを消す機能が含まれている。

前述のようなデフォールトと例外に関する性質は物理現象の学習過程などで実際に観測されている。例えば人は一般にまず地上を動くものが徐々に減速して止まるというようなデフォールトを学び、このデフォールトはボールや氷上の物体についての例外ルールで守られ維持されるが、教育や経験により例外が増えすぎると慣性と摩擦の法則を学び直すことになる。

このようなことからこの章の冒頭に挙げたような典型例が役立つ場合とその限界が何であるかが分かる。一つのプランの骨格を示せば、初対面では典型例を教え、暫時例外を教えることによって例外を増やし、例外が学習されて蓄積された結果混乱して来たら特徴のリストを挙げ男女観と女装者観(男装者観を含んでもいいが…。)を統一するというものが有り得る。

まとめ

以上に論じた内容はは女装者の取り扱いに特化したものでないが、まとめに代えて女装者に関する観点に特化して列挙してみる。

Outside節では無知に基づいた社会的機構の原理としての自由の議論から始めて以下の二点を述べた。

  1. 女装者を見るものの側の寛容の必要性
  2. 女装者側の自由という権利の主張の必要性と正当性

これらは社会的に要請される部分であって最低必要限度の部分である。一方Inside節ではメンタルモデルの紹介を通じて以下の二点について述べた。

  1. 多様性が分類を超えた本質でありうること。
  2. 多様性は学習され得ること。

これらは可能性であり、社会的に最低限度の関係からより深い関係に踏み込む際の指針となり得ると思われる。

以上のことを踏まえて私は男性或いは女性の女装または男装に於けるあらゆる特徴の演出(服の選択から会話、化粧、声、作法、整形、薬物etc.)は動機の如何を一々問題とせず料理に於ける味付けのように自由な表現の一端であると捉えることを味わう側にも調理する側にもお勧めしたい。これらの演出は誰に味わって貰いたいかという目的とは独立して選択され得ると信じる。

以上。